ハレルヤ  


細身の母の腹部だけが日増しに膨らんでいく姿はとても奇妙だった。
自分を身篭ったときも母の腹は確かに人ひとりぶんの重さを抱えていたのだろうが、その光景を
腹の中から窺えるはずもなく、だからシェイドが生まれてから今日まで知っている母の姿は
たおやかに細く華奢で病弱な印象で、それが不変のものであったのだ。
しかしシェイドにとっては弟か妹か、どちらかまだ知れない新しい命を宿した母は椅子に腰掛けていることが
多くなり、腹を撫でて重そうな息を吐くことが増えた。そして、政務が一段落ついたか、というころに
薄く紅を乗せた唇で、月の国に住む子供たちなら誰でも知っている童歌を歌うのだ――

「母上、一月後の祭りについての稟議書を預かって参りました。目を通していただいてよろしいですか」
「ありがとう、シェイド。私が動くのにも苦労するせいで、最近はあなたに頼りきりね。ごめんなさい」
「いいえ。母上をお助けするのは、この国の王子としても息子としても、僕の当然の務めだと思っていますから」
母は目を細めてもう一度、ありがとう、と礼を述べた。
そうしてドレスの裾を滑らせ椅子から立ち上がろうとするのを手で制し、シェイドは母の傍に歩み寄る。

「病気ではないのだから、そう心配しなくても大丈夫よ。あなたがお腹に入っていた頃は、もっと大変だったわ」
ふふ、と鈴が転がるように笑う。今でこそこんなに立派だけれど、私のお腹を蹴るときの元気の良さといったら、などと
愉快そうに昔語る母の姿に何と返せばいいのか分からず、結局は憮然とした顔で突っ立っている羽目になった。
「……大事が無いのなら、それに越したことはないと思います。ただでさえ、母上はお身体が
 あまり丈夫なほうではありませんし」
「そうね。その通りだわ」
目を伏せていた母の、シェイドと同じ色をした瞳が彼を見る。
その頬の輪郭から顎にかけての線が昔よりも細く、頼りないものになっているような気がして、
シェイドは眉根を寄せた。

本来ならば、身重の母にはこうして自室でゆっくりとした時の流れの中にいてほしいのだ。
けれども彼が政務の全てをその肩に乗せるには、彼はまだ幼すぎる。
手のひらを開いても白い五指はひたすらにちっぽけで、父の残した鞭もまだ満足に扱えない。
頼るべき臣下は、年端もいかぬ子供にまつりごとの何がわかるのだという目で彼を見る。
この国を統べるための冠を頂く母に対してもそうだ、女王はただ巫女として飾り物であればよい、と
城の中でですら、彼は幾度も耳にした。
なら、おまえたちは俺があと数年早く生まれていれば、この背丈と体躯が大人のそれと変わらないもので
あったなら、やすやすと国のすべてをこの手に委ねるのか、と苦く不愉快な苛立ちが胸に走ったことも
一度や二度ではない。


「シェイド」
するり、と前髪を除かれて、額に寄せられた手のひら。
民を導くために杖を掲げ、腹に宿った我が子を支え、そして、シェイドを労わるように撫でる、母のか細い手。
この手のひらを守らなければならない、と心に固く誓ったのは父がこの世を去った、あの日からだ。

「だめよ、無理をしては。あなたに一番無理を強いている私が云えた台詞ではないのかもしれないけれど、
 世界に自分たった一人で立っているのだと思っては、だめ」
いらっしゃい、とか細いはずの母の手が彼の腕を引き、ほんの小さな力しかこめられていなかっただろう
その手のひらに何故か抗えなかったシェイドの身体は、母の大きな腹に頭を預けるかたちになる。
じわりとした熱を持った、中に本当に人がひとり詰まっているのだろうかと不安になる硬い感触は
これまでの十年と少しばかりの彼の人生には覚えのないものだったので、
どういう態度を取ればいいのか、何を云えばいいのかも思いつかなかった。
ははうえ、と自分でも情けなくなるほど揺れて心許ない呼びかけに、母は笑う。

「あのひとはずいぶんと早く逝ってしまったけれど、私にたくさんの宝物を残していってくれたわ。
 この国と、あなたと、お腹の中の新しい家族と。私は守るべきたくさんのものたちのおかげで
 今も立っていられるのだと、あなたのお父様がいなくなって初めて分かりました」
腹の中の子と腕の中の息子、ふたりを共に抱えるようにして、たおやかな手が我が子を撫でる。
母の腹に耳を寄せているシェイドの耳に、絶え間なく響く音があった。
どくん、どくん。それは命のリズムだ。この星に生きとし生ける者すべてが持つ、生命の脈。
まだ産声すら上げていない小さな命が、生きることを望んで叫ぶ音。
かつては彼もそうであったはずだ、そして、今は母となっている眼前の女王も。
けれど彼にはやはり母は母であり、守らなければならない病弱な存在として映る。

「あなたにとっての家族や民が守るべきものにしかなり得ないのなら、いつか。
 遠い先かもしれないし、近い未来かもしれないけれどきっといつか、あなたの隣であなたの見据える世界を
 同じように見ることのできる相手と出会うことができるかもしれません。あなたの庇護を必要としない、強い意志と」
「……それは、宣託ですか」
「いいえ。母の願いです」


彼には、母の言葉の意味はまだわからない。
守るべきものと、それを脅かすもの。彼の世界には、そのふたつしかまだ存在しない。
そして、守るべきものがまたひとつ増えること。


いまだ見ぬ小さき者よ、愛しきいのちよ、早く生まれておいで。

母と息子と、彼らが守るべき民のそれぞれの願いを受けて、幼いいのちはいまだ永い眠りのなかにある。


本編開始より一年と少し前、まだ世界も自分も信じきれていなかった頃のシェイド。 

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