君は誰と幸せなあくびをしますか。 


鼻先にひらりと舞い降りた蝶々は、濡れた鴉のような黒羽を持っていた。
しばし私の鼻先を遊び飛んだのち、また飽きたように飛び立ってゆく。
その黒羽が陽ざしを受けてきらりきらりと照り返すのは少々眩しくもあったが、私の腹に身体を預けて眠る
主人の重みの安らかさと比べれば些細なことであった。穏やかなる時間の中で、主人が何を思い如何なる
風景を夢に望むのかは私には全く思い至らぬところでありはしたものの、私の今の使命は、主人の安眠を
どんな妨げからであろうとも守ることなのだ。
しかし、風を泳ぐ蝶々や休めた脚のそばを横切る虫たちとは異なる気配がこちらに近づいていることを
嗅覚で感じ取る。踏まれた草の音、大気に乗るほの高い声。その声の色を耳で捉える前に、
私は主人の安眠はそう遠くないうちに破られるであろうと予測した。


「……シェイド?寝てるの?」
青い髪のむすめはそう云いながら、私の腹を枕に目を閉じている主人を覗き込む。
私はこのむすめの名前を知らない。主人が幾度か名を呼んだことがあったように思うが、
いつも音の羅列を覚える前に、それらはゆるやかな風に乗り消えていった。
最も名を覚えていたところで私がその名を口にできる訳はないのだから、
音の羅列の行方を追う必要もないだろう。主人が、このむすめの名を心に留めている限りは。
「あ。ごめんなさい、大きな声出したら起こしちゃうわね」
私の眼がじっと寄せられていることに気付いたのか、むすめは声をひそめた。
傾げた首に寄り添うように、空と同じ色の髪が流れて落ちた。
私たちの遥か頭上、変わらぬ安寧を約束するかのような蒼穹を折り取り揺らせば相違ない色が
生まれるのではないか、と私の視覚は判断する。

「……そっか。私たちがふだん迷惑とか心配とかかけちゃってるから、ゆっくり眠る暇もないのよね、
 シェイドは」
主人の常の眠りが浅く短いのは、その背と身体が伸びやかな成長の途を辿るに従ってともに生まれた
気構えと用心深さからいつしか身についた性分のようなものだろう。
その証拠に、この青い髪のむすめたちと出会う前から主人の眠りは変わらず浅い。
ただ、むすめが口にした理由が主人の疲労をより蓄積させている結果に貢献していないとは云い難い。
それは、むすめたちを前にしての主人の溜息の多さから推察した私の勝手な憶測である。
私は数という概念がこの世のどこまで続いているのか、その恐ろしさを主人の溜息から学んだのであった。

しばらく何事か考えていたむすめは、ひそめたままの声で云った。
「私もちょっとだけお昼寝にまぜてもらっちゃっても、いい?」
仮に私がその問いに対して一声鳴いたところで、このむすめには是と否の判別がつくのであろうか。
しかしむすめは私の眼を見つめ、問いの答えが返るのを真摯に待っている。
どう応えてやったものかとしばし思考し、さしたる害もないであろうと瞼を上下させる。
どこまで私の意を汲み取ったのかは定かではないが――そもそも、己の都合のいいように解釈しただけ
だったとしても結果は同じだ――むすめは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、レジーナ」
おじゃまします、と囁いてから青い髪のむすめは微動だにしない主人から少々の距離を取り、
私の首に寄り添うようにしてゆっくりと腰を下ろした。
主人以外の人間に触れられることはゆめゆめ愉快な感覚では無かったが、奇妙なことに
私の首に置かれた小さな手を別段不快に思うことも無かった。
「あなた、草の匂いがするわ」
むすめの鼻先が私の肌を撫で、青い髪が首筋を擽る。窺い知れぬ面持ちを私の首筋へ埋めた
むすめの声が、シェイドとおなじにおい、という呟きをかたちどるのを私の耳は拾っていた。


「それにしても、あなたって本当にご主人さまが大好きなのね」
果たしてそれが正しい指摘なのかどうかは私には解せぬ話である。
主人の手足となりて地を駆け抜け、主人を如何なるものからでも守り抜く盾となることも辞さない意思が
むすめの言うところの「大好き」とだと云うのなら、それは確かに違いない。
私が主人を乗せて走ることが困難にならぬ限り、私の命は主人と共に在る。

私を見上げたむすめの目が不意に細まり、喜色の漏れ出る笑いが零れた。
「……ねえ。だったら、一緒よ」
それなら、という言葉に続けて更に声をひそめ、短い呟きを私の耳に注ぎ込む。
その意味合いは私の知り得ぬものであったが、むすめの声に籠もる柔らかな音が私ないし主人への
否定的な感情を含むものではないと告げていた。
「シェイドには内緒よ。女の子同士の約束ね」
ふふ、と笑った青い髪のむすめの笑顔は高い天のように晴れ晴れとしており、流れる雲のように
軽やかな空気を生んだ。


あふ、とちっぽけな欠伸が私の折り畳んだ前脚の傍から聞こえる。
「……ほんとに、いいきもち……」
最後にそんな言葉を残して、それ以降むすめの口から明確な言葉が発せられることは無かった。
ただ、先ほどの主人に負けずとも劣らぬ、安らかなる寝息が漏れるのみだ。
このむすめの寝つきの良さの百分の一でも主人に分け与えることができたなら、主人もこのようなところで
仮眠をとる羽目にならぬのではないだろうか、と詮無き所感を抱きつつ規則正しい寝息を捉えていたところ、腹にかかっていた重みがゆるりと動いた。
むすめを起こさぬように留意しながら視線のみをそちらに向ければ、依然として変わらぬ姿で
私に身体を預ける主人の姿がある。
白昼の強い陽差しを遮るために主人の顔を覆っていたはずの帽子はずれ落ち、藍の髪の隙間から覗く
耳元が微かな色合いに染まっているのも、私に身体を預けた人間が真に眠りの船を漕いでいるのか
どうか知覚するのが容易いことも私は知っていたが、主人の名誉のためにあえて知らぬ存ぜぬを
貫くことにした。
たとえ夢の中であれ現の中にあれ、主人の心情などはただの乗獣である私が関知するところでは
ないのである。

しかし、先ほど青い髪のむすめが口にした、

――それなら、私たちライバルね。

という言葉の意味をいつか知るためにも、今度ばかりは言の葉の羅列が空に逃げるのを
黙ってただ眺めている訳にもいかぬであろうことを私は薄々感じ取っていた。



レジーナはおんなのこだといいなーとか勝手に萌えています。 



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