なごり雪  


若草色のワンピースの上で、長い青い髪が跳ねている。
調子はずれの鼻歌に合わせてステップを踏むレインの足元はいつものように
危なっかしいものだから、ついついシェイドも余計な口を出してしまう。
「上ばっかり見てると転ぶぞ」
「大丈夫よ。そこまで鈍くないもの」
全く説得力の無い言葉に合わせて、ぶん、と小さな手に握られたバスケットが宙を切る。
その中に鎮座しているだろう彼らの今日の昼食の現状を憂い、シェイドはそっと溜息を吐いた。

シェイドにいいものを見せてあげる。
おひさまの国の街に降り、レインがそんな台詞とともに差し出したのは鮮やかな海の色のピクニックシート。
反射的にそれを受け取って視線をシートに落とし、次に彼女に問い質そうとしたときには
揺れる青い髪は既に大通りの角を曲がろうとしていた。
初めて目にする春らしい若草色のワンピース姿に感想を漏らす暇すら与えられずじまいだったが、
シェイドの少し先をゆく彼女の軽い足取りとその背中を追って歩いているうちに、
いつの間にか彼の口元は緩く弧を描いている。
「今日はずいぶん機嫌がいいんだな」
「あら、いつもよ。ふふ、でも今日は特別!」
どうしてか分かる?
そう言って勢いよく振り返った少女のまわりで、青い髪がまた大きく跳ねる。
怒っているかと思えば次の瞬間には笑っている、感情の振れ幅の大きいレインの気性が
そっくりそのまま現れているようで可笑しかった。
「なんで笑うのよ?」
「何でもない。で、答えは?今日はファインがいないからつまらない、って云うんなら分かるが」
「それは仕方がないわ。ファインは昨日がお当番だったんだもの。だから今日は、昨日のぶんの宿題を
 片付ける日なのよ」
ふたごの教育係は厳しい、らしい。出された課題をエスケープしようものなら翌日には更に倍になって
返ってくるの、とふたごがぐったりしながら零していたのを思い出した。
そもそも、それが嫌なら最初に出された時点でさっさと片付けてしまうのが最善ではないのかと彼は思うが、
その至極最もな提言を「なるべく嫌なものは後回しにしたいっていう乙女心がシェイドには分からないのよ」
などというはなはだ世の乙女たちに失礼だろう身勝手な返事で蹴散らされた経験から、
余計なことは口にしないようにしている。
常日頃において身から出た錆で錆びてばかりの少女たちだけれど、それでも昨日よりは明日、
明日から明後日へと着実に一歩ずつ成長しているのだろう、と信じたい。
兄を通り越して父親めいた感慨に耽りながら、おひさまの国の街並みをゆっくりと歩く。
やがて賑やかな街を抜け、おひさまの国の周りを取り囲む森へと差し掛かるが
レインは止まる気配を見せない。迷うことなく進む、歩幅の小さな足を追って
シェイドも緑の迷路に足を踏み入れる。
「森の中まで行くのか?」
「もう少しよ。……ほら、あれ!」


細い指が指した先に、緑が開けた一角があった。思わず息を呑んだのは、
緑の中にぽつんと佇む薄紅色に茂った樹があまりにも見事だったからだ。
樹齢は何十年にも及ぶだろうか、大の大人が両手をまわしても足りないほどの幹が
爛漫とした花弁を抱え、座していた。


「おひさまの国にある桜の樹はこれだけなの」
きれいでしょう、レインの表情はどこか誇らしげだ。桜か、と鸚鵡返しに呟いたシェイドの顔を見上げて云う。
「何代か前のタネタネの国の王様にね、お互いの国がずっと仲良くいられますように、っていう
 願いを込めていただいた苗を植えたんですって。お父様やお母様が生まれるずっと前から
 咲いてるんだって聞いたわ」
へえ、と漏らす返事も平坦になってしまう。眼前で咲き誇る満開の桜は周囲の緑に溶け込むこともなく、
圧倒的な存在感をもってそこに存在している。
「感想は?」
「……綺麗だな」
平凡過ぎる感想だと自分でも思ったが、彼の言葉少ない気質をよく知っているレインは
それで満足したようだった。
「でしょう?……散る前に、一緒に見たかったの」
思わず傍らの青い頭を見下ろせば、てっきり同じように頭上の桜を見ているものだとばかり
思っていた翠の瞳と目が合った。そんなにこっちの間抜け面が嬉しかったのか、と言いたくなるほどの
喜色の色を湛えた瞳を細めて少女は破顔した。
「こんなにきれいなんだもの、独り占めにするのは勿体無いわよね」
「……まあな」
シェイドが彼女の返事に何かしらの期待めいた浮いた感情を寄せた自分に呆れ、
そもそも期待って誰が何を期待するっていうんだ、などと己の思考の波を反芻している間にも
レインの言葉は続く。

「昨日はね、ブライト様がいらっしゃったのよ。だから私はお留守番で、今日のぶんの宿題まで
 やるはめになっちゃって。もう、昨日一日だけで一生ぶんのお勉強した気分だわ」
「だから“お当番”か。……だったら、なんで昨日呼ばなかったんだ?別に、わざわざ二手に分かれて
二日連続で見る必要もないだろう?」
「…………そうよね。そうなんだけど。桜が今年も咲いたわね、ってファインと話してたら
 何でかは分からないんだけど、ファインはブライト様と見に行けばいいし、
 じゃあ私はシェイドを呼んで次の日に行くわね、ってなったのよ。……何でかしら」
ねえ、シェイドは何でだと思う?
どうやら本気で疑問に思っているらしいレインに彼が返すことが出来たのは、
さあ、という曖昧な返事のみだった。ふたごの心中がどのようにしてそうなったのかは
彼の知るところではないし、その事実に対して何かしらの発言をしたところで
彼のやっぱり曖昧な心中を吐露する結果にしか成り得ないのだろう。
そして、彼は己の心の内を自分以外の人間に窺い知られるのを好まない。
だから、珍しく自分から進んで物事を深く考えようと努力している幼い少女に助け舟を出してやる。

「それ」
「え?あ、これ?今日の私たちのお弁当よ。私が頑張って作ったんだから!」
えへん、とバスケットを抱えてレインが胸を張る。その一言だけで先ほどの疑問は頭の片隅に
追いやられたようで、シェイドはそっと安堵した。
「何が入ってるんだ?」
「えっと、ね。サンドイッチでしょ、サラダとフルーツでしょ……あ!あとね、紅茶も淹れてきたの!」
「……挟んで切って盛って淹れるだけだな」
「う」
「冗談だ。……楽しみにしてる」
「……えっと、うん。……ありがとう」
シェイドが持たされたピクニックシートを広げれば、レインが楽しそうにバスケットの中のメニューを
彩り良く並べていく。彼女の渾身の作らしい今日の昼食は確かにシェイドの指摘通りのものでは
あったけれど、味はそれなりだった。
挟んで切って盛って淹れるだけだったのが良かったんだな、などと憎まれ口を叩いたら
空のバスケットが飛んできた。
暖かい陽射しの下、満開の桜を肴にしながらのままごとのような穏やかな時間だった。


ふと。森の木々が風にそよぐ音が僅かに大きくなったのを耳で拾うのが早いか、
ピクニックシートの端がふわりと浮いたのを目で認めたのが早いか。
強い風が吹いた。
「……あ」
「わぁ…………!」
視界いっぱいに広がる、鮮やかな嵐。
桃色の小さな花びらは風に乗り、宙をくるくると舞い遊ぶ。
きゃ、とささやかな悲鳴が上がり、舞い散る花弁から視線を移すと、
長い髪を風に取られまいとしている少女の姿。
風に揺れるカーディガンから覗く肩元、白い鎖骨に浮かぶ微かな陰影がちらりと見えて、
思わず目を逸らす。そうしてからふと考えて、別にどうということもない景色に動揺する必要は
ないのではないかと思ったりもする。
まだ幼い少女であるはずのレインに娘らしい甘さが微かに窺えたときの、何とも云えない違和感のような
曖昧な感情を心のどこかで持て余している、そんな自分を自覚しつつもあったのだけれど。



「ねえ」
聞き慣れたはずの蒼い少女の幼い声が、知りもしない娘が歌う恋唄のように宙に浮く。
それはシェイド自身の中での認識の問題なのだと、何となく彼も気付いてはいる。

「来年も、その次の年も、きっときれいよ」

それは、桜じゃなくてお前のほうだろう?

「……だから、また一緒に見てね?一人で見てもきれいだけど、二人で見たら
 もっともっと、きれいな気がするの」

レインの青い髪に、小さな肩に、ワンピースの裾から覗く白い膝に桃色の雪が降っていた。
だからなのだ、その頬がいつもよりも艶めいた色に染まって見えるのは。
彼の手が触れたら、桜色の頬はどんな色に姿を変えるのだろうかと馬鹿なことを考えてしまうのは。
桜の花弁はシェイドの頭上にも同じように降り注いでいるのだから、
彼の頬がどんな色に染まっていようとも、それは桜の色を映し取っただけに過ぎないのに。

来年はもう少し料理が上達してると嬉しいんだけどな、と彼なりの返事を放る。
じゃあ来年はシェイドも一緒に作る?と彼女は笑いながら受け止める。
ひらひらと振り続ける桃色の雪は、いつまでも止みそうにない。

ほんとうにきれい、小さな声で呟いた唇もゆるやかな桜色。

幼い声に色づくほのかな甘さは、桜色の景色のなかでまだ夏の鮮やかさには遠く染まらず、
淡く咲いた春の色合いに似ていた。


イルカのなごり雪を聴きながら書いたらおそろしく恥ずかしい話に。


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