またあした 


れいんがいないの。
赤い髪に紅い瞳、朱色の服のどこもかしこもあかい女の子はそう言いながら泣いていた。
れいん、とは誰のことだろう。
姉か妹、もしかしたら犬や猫のことかもしれないけれど、こんなに悲しそうなのだから、
きっとこの子にとってとても大事な相手なのだ。
小さな女の子は僕のことなんか見ようともせずに、ひっくひっくとしゃくりあげたままだ。
アルテッサや母上はこの宝石の庭をとても綺麗で素敵な場所だと云うけれど、
この子の目には不気味な迷路か何かのように映っているんだろうか?
さっきちらっと見えた紅い瞳はぎゅっと閉じられたまま、小さなからだを更に小さくしてうずくまっている。
……もしかして、僕のことも怖いのかな。いやまさか、そんな。

「ねえ、きみ。名前は?」
名前がわからないことには、この子の正体も「れいん」の居場所もわからない。
「……っく、えぐ、……ふぁ」
「ふぁ?」
「ふぁい、ん……」
ファイン。晴れ、か。今のこの子にはあんまり似合わない言葉だけど、
いつもは名前の通りに元気で明るい子なのかもしれない。
「ファイン。僕はブライトだよ」
横に並んで腰を下ろして、ファインの顔を覗き込む。
隣で空気が動いたことにびっくりしたのか、ファインの肩がちょっとだけ揺れた。
それから恐る恐る、といった様子で僕のほうを見る。紅い目が、涙のせいでまっかっかだ。
「……ブライト……?」
「うん、ブライト。よろしくね、ファイン」
「……ひ、っく…………うん」
まだ不安が消えたわけではないのだろうけど、(「れいん」はまだ行方知れずのままだし)
目の前にいる僕が正体不明の人間から名前のある人間へと変わったせいか、
ファインも少しずつ落ち着いてきたみたいだった。
僕は、ちょっとだけほっとする。

「ファイン。どうしてこんなところで泣いてたんだい?」
「れいんが、……れい、ん、が、いなくなっちゃって……かくれんぼしてたら、いなくなっちゃって」
わ。わ。またファインの目にじわりと涙が浮かぶ。
しまった。「れいん」の話題は出さないほうがよかったんだ。
せっかく泣き止んでくれたのに、どうしよう、どうすればいい?
立派な王になるために毎日勉強していても、こんなにも小さな女の子が泣いてるときに
何を言えばいいのかなんてちっともわからない。
僕は。僕は。


ぺち。もみじみたいな手が、ぺちりと僕の頬を叩いた。
「いたいのいたいの、とんでけ。えい、えい」
見ると、さっきまで涙を目に浮かべていたはずのファインが、僕の頬をぺちぺちとはたいている。
「…………あの……ファイン……?」
えい、えいと手のひらを動かすファインは、もう泣いてはいない。
「ブライト、どっか痛いの?あのね、痛いのはどっかにやっちゃえばいいんだよ。
 お母様がね、そう言ってたの」
いたいのいたいの、とんでけ。
痛くはない。小さな女の子の小さな手の力なんてたかが知れているし、
ファインもそんなに強い力で叩いてはいないだろうと思う。
でも、その代わりに胸の奥が痛かった。



ブライト、貴方は私の誇りだわ。お父様のように立派な王になってね。
はい、母上。精一杯頑張ります。
今日から少し難しいお勉強になりますけれど、きっとブライト様なら大丈夫ですわ。
はい、先生。頑張ります。
お兄様はいつもお優しくて、素敵で。私、世界で一番お兄様が大好きよ。
ありがとう、アルテッサ。僕もお前が大好きだよ。


ブライト。ブライト様。お兄様。
ブライト。ブライト。ブライト。ブライト。


誰の名前だろう。
みんな、いったい誰の名前を呼んでるんだ?

「ブライトってば!」
目の前に、赤があった。
赤い髪と紅い瞳、朱色の服。ファイン――そうだ、ファイン。城の庭のすみっこで縮こまって泣いていた、迷子の女の子。僕の袖を引っ張りながら、ずっと僕の名前を呼んでいたのだ。
「どうしたの?おなか痛い?悲しいの?おなかすいた?また、いたいのいたいのとんでけって
 やってあげようか?」
どくん、どくんと心臓がうるさかった。ファインの声だけがやけに大きな音で聞こえる。
からからに干上がってしまったような喉が痛い。
さっき考えていたことがとても醜いことのように思えて、耳をふさいでしまいたかった。

「………………ファイン」
「うん?」
僕の袖口を握ったままだった、小さな手に触れた。そのまま握り締めても幼い手は
離れていく気配が無かった。それだけのことで、こんなにも安心している自分がいる。
何か云おうと思ったけれど、何を云えばいいのか全然わからなかった。
そもそも、僕は何をしていたんだっけ?
この庭で泣いている女の子を見つけて、何とか慰めようとして、気がついたら手を握ってもらっているのは僕のほうだ。今の状況を自覚したとたんにものすごく恥ずかしくなってしまう。

ファインは、多分青くなったり赤くなったりしている僕を黙ってじっと見つめていたけれど、
やがて、にっこりと笑った。
「また明日頑張ろ、ね?」
あした、まだざわざわしている頭の中で必死に考える。
明日。また明日。
「あたしとレインもね、いっぱい怒られるの。いつも怒られちゃうよ。でもね、また明日は頑張ろうって、
 レインと約束するんだよ。そしたらね、ほんとに次の日にできたりするの!」
……僕は、もしかして頭の中で考えていたことをそのまま口に出していたんだろうか?
そんなことはないと思いたいけど、ファインの言葉はあまりにもタイミングが良かった。
「だいじょうぶだよ。あたしも頑張るから、一緒にがんばろ。ね!」
ぎゅっと握られた手が、ほんのり暖かい。
不思議なことに、その時生まれて初めて聞いた言葉みたいにまた明日、という言葉が
僕の中にすとんと落ちてきた。
また明日。ずっとずっと昔、まだ小さかった頃に眠るまえに聞いた、母の優しい声のように。
おやすみなさい、また明日ね。
そっと目をつむると、僕の世界は優しい母の声とファインの手の温もりだけになる。
そうして、僕はしばらくの間じっとその小さな世界に身を委ねていた。

「……だいじょうぶ?やっぱり、いたいのいたいのとんでけ、する?」
「……痛くないよ」
「ほんと?」
「もう、痛くなくなった」
よかった、と笑うファインを見て、僕もほっとする。
この子が笑うと安心する。名前の力だろうか、高く吹き抜ける晴天のように
心が晴れていくような気さえ、した。
「ファイン。歩けるかい?」
「どうして?」
「レインを捜しに行こう。僕も一緒に行くよ」
「……うん!」
あかい女の子は元気良く立ち上がって、僕の差し出した手を握ってくれた。


「ねえ、ブライト。あれ、苺なの?」
「え」
僕とつないでいないほうの手をファインが向けているのは、庭に飾られた宝石だった。
その人差し指の先にある一角は、果物にあつらえた宝石がまるで植物のように並べられた光の園だ。
見慣れない人から見たら、本物の果物のように見えてもおかしくはないかもしれない。
「ああ……あれは、苺じゃなくて苺みたいに作ってある宝石だよ。欲しいなら、あげようか?」
宝石はこの国の産物だし、ひとつやふたつくらいなら僕でも融通できる。
けれど、ファインはさしたる興味もなさそうに首を振った。
「うーん……要らない。苺は好きだけど、宝石はそんなに好きじゃないもん」
僕のまわりにいる女の人や女の子は、みんな宝石やきらきらしたものが好きなのに。
変わった子もいるんだな、と思った。
あ。苺なら、確か。
「なら、良かったらどうぞ。これ、あげるよ」
アルテッサにあげるつもりが、「わたくし、もうそんな甘いお菓子が好きな子供じゃありませんの!」と
まっかな顔でそっぽを向かれてしまって、それからずっと僕のポケットの中にあったのだ。
「……あ、キャンディだあ!赤いね。苺?」
「うん。ファインは苺が好きなんだろう?」
「大好き。嫌いなもの、全然ないの!」
そう云ってどこもかしこもあかい女の子は、苺のキャンディを嬉しそうに頬張った。
ほっぺたがばら色みたいに赤くて、何だかどきっとした。
ありがとう、おいしい!なんてファインが言ったお礼の言葉もどこか遠い世界で言ってるみたいに
聞こえるのは、何でだろう。
ファインとつないでいる手に汗をかいていなければいいんだけど。
胸がどきどきいってるのは不思議だったけれど、人の笑顔を見るのはとても嬉しいことだと思う。
たくさんの人が笑って、幸せになれたらいい。
そのために僕に何かできることがあれば、それはとても素敵なことだ。
ファインの幸せそうな顔を見て、そんなことをふと思った。

「あ」
ファインの声が、名前の通りにぱあっと晴れた。
「レインが呼んでる!」
「え?」
「レインが呼んでるの。ふたごだもん、分かるんだ!」
するりと抜けた、つながれた手のひら。何となく寂しいような気がするのは気のせいだろうか。
「れいん」はどうやらふたごの妹だか姉だったみたいだ。
(もしかしたら、お兄さんか弟という可能性もあるけれど)
「呼ばれたの?僕には聞こえなかったけど……」
「呼んだよ。ずーっと向こう、あっちから聞こえた!」
あっち、というのは城へ通じる廊下の方向だ。でも、あんな遠くから声なんて聞こえるものだろうか?
ファインの耳がよっぽどいいのか、それともふたごの不思議な絆の成せる技なんだろうか。
赤いおさげが大きく揺れて、駆け出したファインの後を追う。
小さなあかい女の子の姿が、みるみる小さくなって遠くなる。


そういえば、僕はこの子の名前以外何一つ知らない。
レインというふたごがいること以外、今日この庭にいた理由すら知らないのだ。
そう思った瞬間、叫んでいた。

「ファイン!」

僕の声に振り返ったファインが、にこっと笑って手を振った。
おひさまの陽の下で、あかい女の子がちかちか光った。
「ブライト、またね!」
光ったのはほんの一瞬、だけど僕の頭にはその一瞬がものすごく長い映像みたいにずっと残っていて、
ファインが走っていってしまった後も、赤い頭が城の廊下に消えた後も、それは消えることがなかった。




また明日、あかい女の子が云ったように僕はまた頑張れるだろうか。
頑張らなければいけない自分ではなく、頑張りたい自分のために明日訪れる未来に祈る。
明日の次、それからずっと先に訪れる明日の頃には僕はもっと大きくなって、
泣いてる君を見ても困らずにいられるくらいに大人になっていたらいい。
もっとダンスが上手くなって、女性のドレスの裾を踏んでしまうようなことがなくなったら、
君は僕とダンスを踊ってくれるんだろうか。
今日見せてくれたような笑顔で、にっこりと頷いてくれるんだろうか。



ちかちか光るあかい女の子の残像はいつまでも消えない。
そうして、僕はいつか訪れるかもしれない遠い未来を思った。



本編の始まる何年か前、ファインとブライトの第一種接近遭遇。

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