棘は甘く、その舌先は軽く


右目に走った小さな痛みに思わず声を漏らすと、横にいた青い髪の少女は
当然のように反応した。たった今吹いたばかりの強い風に舞い上がった、
いつもの旅服の青い裾がひらひらと揺れていた。
「どうかした?」
「いや……目に何か入った」
「今の風のせいね、きっと。……ああ、擦ったらだめよ。
 目が傷ついちゃうわ」
そう言われ、まさに目を擦ろうとしていた指を止めて、代わりに
じくじくと熱をもったような瞼をそっと押さえる。痛みは決して重くは無く、
その質量に見合っただけの弱いものではあったけれど、そのために
奪われた視界の半分は、シェイドをどこか落ち着かない気分にさせた。


「目に入ったごみって、取るの大変なのよね。ほら、見せて?」
「え?」
ほら、再度言われながら小さな手で襟を引かれ、急に青く染まった左目のみの視界は、
彼にとっては心もとない景色だった。青い帽子に青い髪、青い服の中で
翠の眼と白い肌、紅をひいたこともまだないのだろう唇がほのかな桜色で、
彼女が好んで纏う色のなか、何故かひどく目を惹いた。
「んもう、シェイドは背が高いんだからそれじゃ見えないわよ。
 屈んでくれる?」
「……あ、ああ」
言われるままに腰を下ろすと、レインも膝を折って地面に脚を着けてしまう。
膝立ちのままで身を乗り出しシェイドのコートの肩に手を置くと、
「じっとしててね」
と、いつになく真剣な表情を彼に寄せる。


ふたごの妹とは違い、どうにも身体能力に秀でていないらしい少女を
命の危機から救い上げてやる度に、
そのか細く幼い身体を腕の中に抱いたことも何度かあったけれど、
今のように何ということもない、静かな時間のなかでここまで間近に彼女の顔を
認めたのは初めてだったのかもしれない。
そんなことを考えながらも、さすがに視線を合わせることはできずに
シェイドはぼんやりと少女の青い髪を眺めていた。



と、不意に右目に何かが触れた。痛みを訴えている右目を柔らかい熱が滑り、
その痛みをゆっくりと溶かしていくような奇妙な感覚が通り抜けてから数瞬後、
自分の右目に少女が舌を寄せているのだと理解した瞬間、胃がひっくり返ったような気がした。
反射的に身を引こうとすれば、
動いちゃだめ、などと悪戯な子供を叱るような声が頭上から落とされる。
駄目も何も、と情けなくも小さな声で反論しようにも
少女は全神経をその舌先に集中させているようで、彼の所在無げな様子など
全く気にも留めていない。


くちゃり、と濡れた音が耳に響く。舌が目の表面を這うその音は
ただの粘膜が触れ合うための水音であるはずなのに、妙に扇情的な響きをもって
彼の耳を支配した。
頼むから勘弁してくれ、と両手を挙げて降参できたらどんなにいいか。
舌を彼の目に寄せているおかげで、レインには少年の染まった頬も、震える指先のことも
見えないだろうことだけが救いだった。


「ね?取れたでしょう」
そう言ってぺろりと指を舐めたレインの舌は紅かった。
あ、けっこう大きなごみだったのね。これじゃ痛いはずだわ。
中指をまじまじと見つめてそんな感想を漏らす少女に何を言えばいいのか
さっぱりわからず、開きかけた唇は結局何も言葉にできないままだった。
少年の右目に痛みを与えた小さな棘は、少女の舌を辿って今はその指にある。
けれど、今ではその棘がもたらした痛みは右目よりもずっと身体の奥の胸の内で、
鋭さよりもほのかな甘さをもって根付いているような気がした。


よいしょ、と可愛らしい掛け声と共に立ち上がったレインが裾を払う。
いまだに動けないシェイドの視界の中で、払い落とされた草がはらはらと舞った。


「お母様がね、私やファインの目にごみが入ったときに
 よくしてくれるのよ。きもちよかったでしょ?」
二の句が告げなくなった少年を満足そうに見下ろして、少女は笑んだ。
澄み渡るような青空を背において笑えば、彼女もその肩書きが示す通りに
太陽を司る国の姫であることがよく分かった。
眩しいと感じたのは背後の陽の光か、それともその光を受けて笑う少女自身だったのか。



「ふふ、弟ができたみたい」
妙に嬉しそうな少女の声音はいつもより高く響き、
少年の眼には柔らかく暖かい感触がいまだに残り、
耳に伝わったままの濡れた音は、いつまでも彼の脳裏から消えようとしない。



どこか名残惜しいとすら思っている馬鹿馬鹿しい考えを頭を僅かに振って追いやり、
自分の表情を読まれないように被った帽子を深く下げてからふと気付けば、
少女はもうずいぶんと先にいる。
何がおかしいのかけらけらと笑いながら、ふたごの妹のところへ
揺れる青い髪と共に駆けてゆくその背中を目で追って、
少年はゆっくりと立ち上がった。




旅の最中の一風景。

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