ふん、ふん、ふん。あまり上手くない鼻歌に合わせて姉の手はくるくると回り、鍋の中の黒褐色が
そのたびに渦を巻く。もともとは白かったはずの鍋にこびりついた茶色の筋は、去年の大騒ぎの名残だった。
お父様とお城のみんなにチョコを作るの、と二人して張り切って、半日後には厨房が半壊した。
チョコレートどころか鍋ごと焦がし、真っ二つになったまな板は数知れず。
大小さまざまなボウルはひとつ残らずひっくり返って厨房の床に散乱していた。
鍋の底にほんのちょっぴりだけ残っていた、チョコレートらしきべっとりとした固形物を眺めて姉と妹は
途方に暮れたのだ。
ああでも、お父様はちゃんと食べてくれたんだった。顔が少しばかり引き攣ってはいたけれど。
残念ながら配って回れるほどの量が残っていなかったので、「ごめんなさい」と「来年は頑張るね」の言葉を
代わりに配って回って歩いたら、皆一様にほっとした顔をしていたのは未だに不思議だ。
けれど、今年は厨房で忙しなく動いているのはひとりだけ。
姉が楽しそうに手首を動かしている姿を、ファインは何をするでもなくぼーっと眺めている。

レインは終始上機嫌で、料理のお供の鼻歌は既に三巡目。もっとも、ファインが聞いたこともないような
そのメロディーはさっきからぐるぐると同じような音程しか聞こえて来ないので、即興で適当に
歌っているのかもしれない。
「それ、なに作るの?」
「んー?ひみつよ」
やっとこっちを向いてくれたと思ったら、ひみつの一言で会話が終わってしまった。
なんだかちょっと、面白くない。
「それ、誰にあげるの?」
「ふふ。それもひみつ!」
毎日毎日、おはようからおやすみなさいまで一緒に過ごしている姉の、だからほんの少しいつもと違うだけですぐ分かるのだ、その目がとても嬉しそうに細められていることや、卵と砂糖を混ぜたボウルに指を這わせてひと舐めし、まだ砂糖が溶けてないかしらと考え込む口元が優しく微笑んでいることも。

やっぱり、いつもいつもかっこいいとか素敵だとかって騒いでるブライトなのかな。
もしかしたら、文句ばっかり云ってるわりに妙に仲がいいように見えるシェイドかも。
それとも、放っておけないみたいで世話をよく焼いているティオだったり、
意外に話が合うらしいアウラーだったり、たまにタネタネの国に咲く花を見せてもらっているらしい
ソロだったり?

ファインの頭に友人である少年たちの顔がいくつか浮かぶ。
しばらくの間、そのいくつかの顔について考えて。やがてふるふると首を振った。
なんだか、なんだか。ちょっとだけ、だけど。

レインの手のひらがそっと鍋を掴んで、とろとろに溶けたチョコレートをボウルの中へ流し込んでいく。
てっきりもっと濃い色に固まるのかと思ったら、ボウルの中身はファインが考えていたよりもずっと薄く、
どちらかと云えばカラメルソースの色に近い。
チョコじゃないのかな、とファインは首を傾げた。
これがチョコレートならこれから流し込んで固めるための型が必要なはずだけれど、
レインが用意したカップはティーカップよりもひとまわり小さなサイズで、やっぱりチョコレートには
大きすぎるような気がする。だけど、ケーキには小さすぎる気もするような。
チョコとケーキの真ん中くらいの大きさで、カップの形で――いろんなお菓子の姿形を次から次へと
思い浮かべていたファインだったが、やがて、あ、と声を上げた。
「それ、プリンなの?」
「そうよ、チョコレートプリン。味見する?」
甘い匂いのする茶褐色のプリンがひとさじ掬われて、ファインの目の前に差し出される。
いつもなら、うん!と頷いて飛び付くのがファインであって、
たぶん、レインもそれを期待していたのだろうと思う。
だけど、何となく。これから誰かに贈られることが分かっているそのチョコレートプリンを口にするのは、
何故だかとても良くないことのように思えてしまう。
だって、レインが一生懸命作ったのに。あたしじゃない人のために、大好きな人のために。
不思議と面白くないその気持ちがちくちくと胸を刺すけれど、
あんなに嬉しそうで、楽しそうな姉の、大好きな人。
「……いらない」
「そう?」
「ほら、あたしに味見させるよりも、さ。ほんとに大切な人にあげなよ!だって、その人のために
 作ったんでしょ?誰かは知らないけど、きっとすっごく喜んでくれるよ!」
別に、無理をしているわけなんかじゃないのだ。だってそんなの、する必要なんてないし。
ついつい早口になってしまったのは、レインの料理の腕が不安だったからだとか、
チョコレートプリンが大好物だというわけでもないからだとか、たぶん、きっとそう。
「……そう、ね。そうしようかな」
口元からそっと離れていったスプーンに微かな寂しさを感じながら、ファインは精一杯の笑顔を作って頷いた。


そんな経緯があったから、翌日のファインはとってもとっても驚いてしまったのだ。

「はい、ファイン。ハッピーバレンタイン!」
「……はっぴーばれんたいん?」
朝一番に、まさにおはようも云わないうちからずずいと突き出されたのは、綺麗なラッピングで包まれた
箱だった。色は、もうすぐやって来る春の色。ファインの一番好きな、紅と桃の色だ。
「あたし、に?」
「うん。ファインによ」
レインの顔と差し出された箱、その二つのあいだを行ったり来たりするばかりのファインの視線を受けて、
姉が笑う。
「え。だって、だって。えっと……ブライトとかシェイドとか、に、あげるんじゃなかったの?」
「もちろん、ブライト様やシェイドやみんなにもあげるけど。でも、一番大きいのはファインに
 あげるつもりで作ったの」
「……バレンタイン、だよ?」
「バレンタインだからよ。大好きな人に、大好きっていう気持ちをあげる日でしょう?」
はい、あーん。
昨日と同じ、とても嬉しそうな指先が箱をいそいそと開けてしまい、ご丁寧にもチョコレートプリンに
添えられていたスプーンがすっかり固まって色味の濃い黒褐色に沈み込み、
それがまたファインの眼前に差し出されたときの匂いまで昨日とそっくりそのまま同じだったので、
何となくまだ夢の続きにいるような気分で、目の前にあるスプーンを口に含む。

正直に云えば、レインの焼いてくれたチョコレートプリンはあまり美味しくはなかったけれど。
(硬いプリンって、この世に存在するんだなあと目から鱗の思いだった)
「おいしい?」
心底楽しそうに、スプーンでプリンを掬う姉の笑顔。

ファインが好きなものはたくさんあった。
春の季節や紅色や甘いお菓子と同じくらいにファインの「いちばん」なのは、
自分のそばで自分とよく似た顔で柔らかく笑う、たったひとりの。

「えへへ」
「なあに、笑ったりして」
「あのね、レイン」
「なに?」
「大好き」
「そんなの、わざわざ言わなくても知ってるわよ」
「うん!」


来月のホワイトデーには、たくさんのクッキーを焼こう。レインが食べきれないくらいに、たくさん。
そうしてまた来年のバレンタインが来たら、もっとおっきなケーキを焼こうと思う。
お父様とお母様とキャメロットとルル、それにオメンドやお城のみんなにだって分けられるぐらいに
大きなケーキを今度はレインと二人で焼いて、一番美味しそうに綺麗に焼けたところを切り分けたら、
それはもちろんレインにあげるのだ。世界で一番大好きな人のために焼いたケーキはきっと、
世界で一番美味しくて幸せなケーキになってくれるはずだから。






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